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其の二十四


挫折こそ尊い

  今から千年ほど昔、中国に香嚴(きょうげん)という禅僧がおりました。大変賢こく、すべてを機敏にやってのける有能な修行僧でした。
 お師匠さんの霊祐禅師(れいゆうぜんじ)は、この修行僧をほんものの僧に鍛えあげようと思いました。そこで禅の問題を与えました。
「あなたが生れる以前の自分とは、どんな自分であったか」
 佛教の本をたくさん読んでいる香嚴は、すらすらと答えました。
だが、師匠は「そんなものは屁理屈だ、自分の言葉で答えてみよ」と、はねつけます。
 その後も毎日のように返答を持っていきます。「それは頭で考えたことだ、からだで体験したことを持ってこい」と、全く受けつけません。このようにして何年か経ちました。
 香嚴はお師匠さんに、泣いて教えを乞います。しかし、無慈悲にはねつけるだけです。
 香嚴は絶望のあまり、持っていた佛教の本も一切焼き払い、泣く泣くお師匠さんのもとを離れることにしました。
 でも、せっかく坊さんになったのだから、せめて田舎の寺で墓掃除をして一生暮そうと思い立ちました。
 それから、黙々とお墓掃除に明け暮れる毎日でした。しかしさすが香嚴和尚です。悟りを開いて立派な坊さんになろうと、一度は決心したのです。絶望感に打ちひしがれながらも、単なる賃金かせぎの掃除ではありません。お師匠さんから与えられた問題は、すっかり抛棄(ほうき)したつもりでも、頭の片すみにどこか残っているのでしょうか。単調に毎日毎日掃除を続けているうちに、自分では意識もしていないのに、心境はとぎ澄まされていったものと思います。
 そんなある日、いつものようにほうきで掃いているとき、一粒の石ころが、カチンと竹にあたったのです。その瞬間、香嚴は「ああッ」と叫び、喜びの涙がとめどなく流れました。
 それから服装をととのえ、遥か霊祐禅師の住む山の方に向って焼香礼拝(しょうこうらいはい)、「あの時お師匠さまが最後まで突き放して下さったおかげで、今日の感激があります」と、あふるる涙をぬぐいました。
 これが、千年来、燦(さん)として輝く香嚴智閑禅師(きょうげんちかんぜんじ)の修行時代のはなしです。
 人は志が大きいほど、挫折感に打ちのめされることもあります。
その絶望感を契機に、すべてを捨て切り零から奮起する人もあります。そこから大きな歓喜に涙することも生まれるのです。
 志のない者には、挫折の涙すらありません。
 
御誕生寺 第12号より抜粋

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