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親子の対話の場はこうして作ろう


 あなたは「学ぶ」という言葉がどうして出来たか、ごぞんじですか?
 昔むかしの日本語では「学ぶ」といわずに「まねぶ」といっておりました。学ぶことは「まねぶ」こと、つまり、まねをすることなのです。見よう見まねで自分のものにする。それが「学ぶ」ことであり、まねがまねでなく自分自身のものになる、ということでした。
 子供は、親や教師、いや、大人たちすべてのすることなすことをまねしながら、自らも大人になってゆくのです。
 親子の対話がなくなってしまった、というなげきの声が聞かれるようになってから、すでに何年も過ぎたように思われます。
 父親は、会社からの帰りがおそく、母親は、パートの仕事やら家事やらで、子供の相手をしているひまがない。子供自身も、宿題や塾通いで夜も大忙し。家族のみんなの団らんの機会など、めったにやってくるものではありません。
 たまに一家が集まっても、これという話題がないので、親たちのほうがわが子に気がねしいしい、動物園へ連れていってやろうかとか、学校でいじめられやしなかったかいとか、子供のご機嫌をとるような話をするだけです。こうなっては、他人同士の寄り合いと変わるところがないでしょう。
 くり返し申しますが、子供は「まねぶ」生きものです。一日、ほんのわずかな時間でも、父母がまるで恋人同志みたいに楽しそうに語り合っていると、ぼくも、わたしも仲間に入れてよ、と自発的に割り込んできて、身の周りのいろいろなことをとめどなくしゃべろうとするのが、健康な、ごく普通の子供なのです。
 誘い込んだり、無理強いすることはありません。対話の場は、作り出すものではなく、いつの間にか作られているものなのです。
 仏教の基本的な考えかたもまた、ここにある、と申し上げておきましょう。自力か他力かなどと、あれこれ議論がありますが、伝統的な仏教には、決して押しつけがましさはないはずです。
 自分の意思で仏さまのおこないを見習い、自ら悟るのが仏教者のありかたです。何々のご本尊さまを信心しないと、いまにあなたの身に悪いことが起きる、などといって、信者を集めようとするのは、仏教の本来の布教のしかたではありません。
 「無為にて化す」とは老子の言葉ですが、教育もまたそのとおりで、大人の側が教えようとすればするほど、子供は遠ざかり、大人と子供の間のみぞは深くなってしまうのであります。ついには、親子であり、同じ日本人でありながら、日本語が通じない、話ができなくてお互いに黙るしかない、というような情けないことになりかねません。
 お父さん、お母さん、今夜あたり、おいしいお茶でも飲みながら、若き日の思い出や未来の夢を語ってはいかが。子供たちは、きっと顔を出すはずですから。
   
時報「龍昌」より抜粋


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